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2013年もイランの政治と社会システムと国民の要求

2013年時点

まずは政治と社会のシステム

結論を先に書くと、イランのイスラム共和国体制はそう遠くないときに変わるだろう??。上のページで予測したのをご参照。
今のイスラム共和国の体制を簡単に説明すると、以下のとおりになる。
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イランは1979年2月11日に革命があってパーレビ王朝が崩壊させられた。革命の精神的リーダーは宗教学者のホメイ二師だったから、彼や彼の支援者の声を受けて、後に「イスラム革命」とよばれ、イランは「イラン・イスラム共和国」の国となった。この革命から30年以上たつ中、人口の70%は革命以前のことを自らの体験として知らない。私もその一人。(革命時に6歳だった!)
イランの今の政治界は入り組みすぎていて、わかるようなわからないもの。
簡単に言えば、トップは故ホメイの後継人となったのは最高指導者のハメネイだ。その下に「行政」、「司法」と「議会」がある。しかし、すべての三権とも、なんらかの形で最高指導者の意向で選ばれる。司法長官を直接任命するし、他も国民投票で選べるはずだが、違う。大統領と議会の議員たちも、立候補する段階で、最高指導者の任命した委員会によって、「立候補する資格があるかどうか」は判断される。結局は、最高指導者の任命と同じことだ。
イランは2009年に第10回大統領選挙があり、その結果に「不正」があったとして、開票結果がでた翌日から不正を疑大勢の市民が大都市の中心に無声で抗議デモ人を行った。「私の票はどこへ行ったのか」というプラカードを手にした人たちが、立候補者の一人、ムサビ(元首相)の選挙カラーの「緑」にちなんだ抗議となった。開票結果の不正を訴えいる立候補者らのムサビとキャッルビ(元国民議会議長)は2009年以降、「緑の運動」の精神的リーダーとされる。
このブログは、この選挙以降のイランの社会と政治をわかりやすく説明するために開設した。太陽がそそがれる時間は長くなる「冬至」の日から、このブログをはじめた。イランでも冬至を祝う。ShabeYalda(生誕の夜)として、太陽が生まれる夜だ。イランにも明るい未来があると期待している。
これからも簡単な説明を加える。

(2012年1月30日CS朝日テレビにでたときようにつくった政治システムの図はこちら)

















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イランの人々はなぜデモにでるのか

「嘘は禁止!」というプラカードを手に街に出ていた大勢の人たちの写真はまさしく、今日のイラン人の気持ちを表すものだ。それは、一年半前、2009年第10回大統領選挙の選挙期間中の写真だ。

http://www.flickr.com/photos/parsaoffline/3610898169/in/photostream/
プラカードを手に街に出たきっかけは、候補者らのテレビ討論会だった。1979年のイスラム革命後、はじめて選挙期間中に行われた候補者らのテレビ討論会だった。実績や、公約などの討論会は、唯一テレビ局である国営テレビ局の第一のチャンネルで放送された。例の見ないほどの高視聴率で、全国で7割の国民が見たとの数字もでたほどだ。混雑でほとんど進められないテヘランの道路も例を見ないほど空いていたという。
しかし、テレビ付けにされていた人々は目にしたのが現職のアフマディネジャド大統領のありえないグラフや発言の連続だった。「第9期の4年間で、革命以降、最低の失業率となった」や「中央銀行が発表したインフレ率の25%は誤りであって、正しくは14%だ」、「あなたを支援している政治家らは金儲けで類を見ないほどの人たちだ」や「核問題はイランの立場を世界的に強めた」と想像を超える内容のものだった。こうした発言などを受け、人々が「嘘は禁止!」というプラカードを手に街にでた。
イランの今日の状況を理解するために、こうした嘘にはじまった大統領選挙にさかのぼらないといけない。「投票用紙が足りなくなる」や「テレビ中継されていた開票結果で、集計数が増えているのに、アフマディネジャド候補以外の得票が減る」などに続くものだった。不正結果を疑った人々は、「私の票はどこにあるのか?」のプラカードを手にまたも街に出た。テヘラン市などの大都市で「無声デモ」だったが、いつの間にか治安部隊や革命防衛隊によって血の海となってしまった。
それからも多方面から出てくる、重なる「嘘」が人々を苦しめ、怒らせた。イスラム共和国の体制が認めたはずの投票だったのにも関わらず、再集計を求める人々を「反体制の罪」で罰したのは、最大の怒りの一つだろう。「反体制の罪」で逮捕した人を数ヵ月後に「麻薬所有の罪」で死刑にするなど、どこにも誠実さが見えなかった。
イスラム共和国体制の誠実さを疑わせることは、中東が大きく動いた今年、2011年にも続いた。まだエジプトで、カイロ市民がタフリール広場に集まっていたさなかの24日、金曜礼拝では「エジプト国民の兄弟らよ。ムバラクを追い払え。ナー・ムバラク(歓迎されない人)の独裁からみずからを解放せ」とイスラム共和国最高指導者のハメネイが演説した。彼は、公用言語であるペルシア語だけではなく、エジプト国民の理解できるアラビア語でも同じような主張をした。
しかし、その2日後にだされた「エジプトやチュニジア国民を支援するためのデモ申請」は完全に無視された。内務省に、デモ申請許可を申請したのは、あの2009年大統領選挙に立候補した元首相のムサビ氏と元国民議会議長のキャッルビ氏だった。この二人は、大統領選挙の不正の疑いから始まった「緑の運動」の精神的リーダーの二人だ。
この二人の申請を受け、「デモ申請許可がおりても、おりなくても皆でデモへ行こう」とネットで大きな波が誕生した。そして、デモ申請どおり、214日に多くの人が路上に出た。外国メディアところか、イラン国内のメディアも活動できないなか、参加者数を確定できない。数千人とするメディアもあれば、10万人とするメディアもあった。「エジプトのタフリール広場と違って、イランではデモ参加者と呼べないただの散歩客が大勢いる」とする外国メディアも関係者もいる。しかし、イランとエジプトで完全に違うのは軍や治安部隊の立場だ。理由はどうであれ、デモ隊に向けて銃を発射していなかったエジプト軍と違って、イランの革命防衛隊やその傘下の民兵組織らは人々に向けて銃を発射していた。逮捕するのも彼らだ。「ただ歩いている人で、こっそりと撮影していた人が治安関係者に打たれている映像はこちら
http://www.youtube.com/watch?v=_Bk-QHbSO9A
「そして、ただ歩いていたはずの人たちが『着替えなさい。逮捕されるから、血が出ているところが見られないようにしよう。」とはなしている。イランでデモ参加者と数えられない人たちも、デモ参加者であることを示す映像だ。
 しかし、デモ参加者の怒りは、その夜の国営テレビ放送でさらに深まった。それは、治安部隊によって殺された芸術学部の大学生に関する報道だった。「ジャーレ氏はもともと民兵の一員であって、デモに参加していた反体制派によって殺された」とするニュースだった。殺された青年の弟が外国メディアの電話インタビューで「彼は消して民兵ではない。彼はムサビ候補の支持者だった」と答えた。同級生らも皆、ネットで同じ意見を述べている。そして、まだ埋葬もされていたジャーレ氏なのに、弟が「外国メディアのインタビューに応じて、体制維持を脅かした罪」で逮捕されてしまった。
いったい、イスラム共和国体制はどこまで嘘をつくのだろうか。エジプト革命の連帯を呼びかけるのか、拒否するのか。自国民を守るのか、殺すのか。人々はこうした状況に怒りを感じている。そして、今はネットで、14日に殺された二人の大学生を追悼するデモの呼びかけが行われている。「嘘は禁止!」というプラカードは、ここまでの反響になるとは、イスラム共和国体制も創造できていなかったはずだ。

いつか出版されるのであろう、岩波書店の世界誌での「女のヴェール(ベール)に踊る男たち」をお読みください